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説教 2016年4月

説教 2016年4月

4月17日『復帰摂理路程と私』

(天一国四年 天暦3月11日) 礼拝説教 金 城鋒教会長

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私たちは、神様が創造した人間個人として男性も女性も完成の道を行きます。蘇生期、長成期、完成期の3段階を通して個性完成をします。個性完成をしたその上に、一人の個性完成した男性と一人の個性完成した女性が神様の元に夫婦として祝福を受けます。そして家庭を持っていきます。そうして、神様の理想が家庭を中心として出発していくことになります。

あくまでも個人の完成を前提として、次の段階の夫婦として家庭を築いていくのです。そして夫婦として持っていく家庭を中心として、神様が創造した全ての万物の主管権を、神様は人間に渡していくことになります。個性完成した個人ではなく、家庭として神様の息子、娘が完成した基準、四位基台が定着した基準で、神様が創造した全ての内容を相続することが出来ます。なので、神様の創造目的の完成とは、神様を中心とした家庭を完成することによってなされます。個人完成、家庭完成、万物主管の三大祝福の完成圏が広がっていくことになります。

人間は、個人の成長期間において堕落してしまいました。なので、堕落した人間が神様の元に戻るには、アダムとエバの堕落したところまで行って、そこからさらに個人の完成の道を行かざる得ません。人間は、天使長ルーシェルの誘惑によってエバが堕落(霊的堕落)をし、エバがアダムを誘惑して肉的堕落をしたことによって堕落した人間になり、堕落した段階から復帰の路程を通して、長成期完成級(アダムとエバが堕落した段階)まで行きます。性的堕落をしたので二人の関係を立て直していくことによって、本来行くべき復帰、完成の道を行くようになります。

つまり、堕落した位置にもどって、神の前に祝福を頂き、完成の道を歩む、本来のアダムが行くべき道が残っているのです。私たちは、祝福を頂き、アダムエバが失った位置に戻って夫婦として行きながらも、アダム、エバが残した個性完成の道が残っているので、個人の道も条件を立てながら行くのです。同時進行なのです。

個人が救われる基準を立てない限りは、最終的に天が求める祝福の本来の基準を与えることが出来ないのです。なので私たちの受ける祝福は、個性完成した男女が受けるものではありません。一人の男性、一人の女性として、天が求める基準として、個人を磨いて個性完成していく出発点に立ったのが祝福なのです。

アダム、エバから始まった内容(先祖の血統)その家系の全ての内容、復帰摂理の全ての結実体として立っているのが私です。私個人が背負っています。今までの縦的な歴史を私一代の時代に清算していくのです。

では、メシヤとはどういう方でしょうか。アダムから始まったすべての人類の歴史、復帰の内容を一代で全て清算した方です。実体で清算し勝利した方です。そして、その勝利の基盤を私たちに相続してくださるので、少しの条件を加えて清算していける「条件復帰」の道を私たちは行くのです。

聖書の結論はメシヤです。いくら聖書を学んでも、再臨のメシヤを受け入れないと意味がありません。旧約聖書の約束(結論)は、神様がメシヤを送る、というでした。神様の約束は成されイエス様が来られました。また、新約聖書の結論は、再臨のメシヤです。その再臨主のメシヤが下さるみ言が次の段階のみ言です。原理は真理ですが、完成級までしか教えていません。完成級は完成ではありません。段階的に新しいみ言が出て来る、とも原理講論に書かれています。なので私たちは原理に執着しないようにすべきです。新しい時代のみ言に相対できないからです。そうでないと、清平の役事は理解が出来ません。原理講論を越えるみ言だからです。霊人の祝福は原理にありません。また、次の段階、天国がどういう内容かは載っていないのです。メシヤが来られ、新しい真理のみ言、人類が完成に至る道を教えて下さいました。人間がどう完成の道を通過し、どう生きるべきか、天国生活をどうなすべきか、天一国経典にあります。完成圏に入るみ言がそこにあるのです。

堕落した世界と区別し、分別していくのに、ユダヤ民族は割礼をしました。新約時代には、バプテスマ(洗礼)でした。そうして、堕落世界の民と選民を区別してきたのです。そして、成約時代になり、お父様は、祝福を下さいました。なので、祝福は、大変重要な内容です。死亡の世界と天の圏内に入る違いであり、生死の境界線を越える内容です。

天国に入る条件は、氏族メシヤです。氏族メシヤの責任を果たしてこそ、国に入籍が出来ます。私たちは最終的に、使命を果たして氏族を連れて神の国に入籍するのです。祝福を越えて、今は、天一国に入籍していく時代です。祝福を受け、今は条件付で神の国に入籍した状態です。お父様の最後の祈りにもあるように、最終的に氏族を連れて入籍しなければなりません。その決意をなして出発いたしましょう。

【み言訓読】 天一国経典 天聖經  第12編 天一国 他

天一国経典 天聖經
第12編 天一国
第2章 天一国の構造と定着
第4節 天一国入籍と定着
34今からは、氏族圏が発足するのです。神様が主管するのではなく、皆さんの一族を天国氏族化する時代に入っていきます。ですから、先祖が役事(働き)して、我知らず統一教会に行くようになるのです。春が訪れれば、葉が無理やり生えるのではありません。自然に生えるのです。ですから、徐々に朝日が昇るその世界が目前に迫ってきたので、解放された姿で、神様の子女の名分を中心として、威風堂々と天地の大主人として闘いに出るのが私たちの義務であり、使命だということを忘れてはいけません。

35今は国がないので、教会の中で祝福しましたが、将来は国に入籍しなければなりません。氏族的メシヤの責任を果たしてこそ、国に入籍できます。国に入籍し、世界に入籍して、真の父母が主体であれば、世界の家庭が客体として一つになり、神様に侍ることができる家庭を献納してこそ、天宙的祝福家庭の理想が形成されます。それが地上天国と天上天国です。

原理講論
後偏
序論
(2) 復帰摂理路程の時代区分
① み言による摂理から見た時代区分
(イ) アダムからアブラハムまでの二〇〇〇年期間は、人間がまだ復帰摂理のための神のみ言を直接受け得るような蕩減条件を立てることができない時代であった。それゆえに、この時代は堕落人間が供え物による蕩減条件を立てることによってのみ、次の時代に、み言による摂理をなすことができる基台を造成し得る時代であったので、この時代を「み言の基台摂理時代」という。
(ロ) また、アブラハムからイエスまでの二〇〇〇年期間は、旧約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が蘇生級まで成長する時代であったので、この時代を「蘇生旧約時代」という。
(ハ) そして、イエスから再臨期までの二〇〇〇年期間は、新約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が長成級まで成長する時代であったので、この時代を「長成新約時代」という。
(ニ) また、イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代は、復帰摂理の完成のために下さる成約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が完成級まで成長する時代であるので、この時代を「完成成約時代」という。
(三)復帰摂理歴史と「私」
「私」という個性体はどこまでも復帰摂理歴史の所産である。したがって、「私」はこの歴史が要求する目的を成就しなければならない「私」なのである。それゆえに「私」は歴史の目的の中に立たなければならないし、また、そのようになるためには、復帰摂理歴史が長い期間を通じて、縦的に要求してきた蕩減条件を、「私」自身を中心として、横的に立てなければならない。そうすることによって、初めて「私」は復帰摂理歴史が望む結実体として立つことができるのである。

4月10日『祈願書、還元祈願礼式の恩恵』

(天一国四年 天暦3月4日) 礼拝説教 金 城鋒教会長

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真のお父様は「祈願書を書いて、還元祈願礼式、聖火式をしなさい。そうして、霊的な内容を整理してあげて、伝道するにおいて助けてあげなさい」と2004年に語られています。真のお父様の願い(み言)は、食口(信徒)たちの体に付いている霊を地上にいる間にすべてを分立してあげて、健康な姿で霊界にいけるようにしてあげたい、ということです。
お父様が聖和された後に、お母様が下さったみ言には「日本の文化に合う祈願書をよく利用して沢山書いて、伝道の道具として使いなさい」とあります。
先祖の解怨を約束する内容が祈願書です。絶対善霊が祈願書を通して働きかけ伝道を導くことが出来ます。具体的に、伝道したい方の名前を書きましょう。

祈願書について大母様がみ言で語っておられます。「祈願書を持って、信仰を持って活動さえすれば、案内、役事を私がするであろう、と天の父母様からのみ言がありました。そして、祈願書を通してすべてのことを解決できる能力を作るために、天の父母様が祝等されるのを見たのです。」祈願書を書くことで、絶対善霊に願えば願いが叶うようになり、神様が共にあり役事するのです。

聖地での先祖解怨、霊分立、祈願書を書くことでさらに恩恵が大きくなります。感謝の心で「天から頂いて書かせて頂いている」という謙虚な姿勢が大切です。そして、信じて切実な思いで書くべきです。書いた人の精誠と信仰において恩恵があるのです。買って書ている、という考えは傲慢です。書いているのではなく、私たちの心を天につなげる、と考えましょう。

祈願書の恩恵は、第一に「所願成就(願いが叶う)」です。それは、天の父母様、真のご父母様からの愛の恩恵なのです。絶対善霊が共に願い、叶うことを協助します。所願成就をさまたげる霊をおさえ、世界人類を幸福に導くために与えられたものです。

第二に「先祖の幸福のために与えられた恩恵」です。真の幸福のためです。子孫が先祖の解怨、祝福を祈願すると、約束された解怨、祝福に対して先祖はとても喜び慰霊されるのです。書き方は、先祖の名前を書き、今から解怨しますので少し待ってください、のように書きます。先祖を解怨することが何より重要なことです。

第三に「霊的な問題を解いてくれる」です。私たちの体中の恨霊を祈願書を通して働きを弱めることができます。還元祈願礼式をし、精誠と信仰生活を同時にしていくことが大切です。そしてその後必ず、清平役事に参加しましょう。何代前の先祖の罪による恨霊が分からないので、先祖の代は書いてはいけません。具体的な起きている問題を書き、恨霊の働きを弱めてください、と書きましょう。 

第四に「天の父母様とすぐに連結できる恩恵」です。祈願書を通して、神様と一心一体一念一和となれます。祈願書に書かれた内容はサタンが見ることが出来ません。天の父母様があげたい恩恵をそのまま私たちにあげることが出来るのです。天の前に直行して届く神様への手紙です。

必ず、精誠が必要です。不足な精誠であっても祈願書を通して補っていくことが出来ます。願い事を書くことで、絶対善霊が叶うよう協助していきます。

還元祈願礼式は、私たちが書いた祈願書を天の前に奉献する儀式です。
祈願書の奉納が中心となります。「還元」とは創造本然の状態にかえることであり、神様が私たちに願われた「真の家庭を築く」ことです。先祖が霊界の天国に入れるようにすること、人々が、健康、家庭円満で、真の家庭、理想家庭を実現するための祭祀です。

毎年5月に行われる「聖火式」は、私たちが書いた祈願書を燃やすことを通して、絶対善霊の先祖の過去の罪を外的に整理し、内的に清く整理することが出来ます。先祖たちは解怨され祝福を受けていますが、罪、過去の記憶、内容が残っているので、全部燃やして消すことが出来ます。罪の痕跡が消され、罪の拘束から解放されるのです。絶対善霊は、過去の拘束されたものから自由になり動けるようになります。

私たちは、なぜ伝道するのでしょうか。天のみ言を伝え、祝福へ、真の家庭へ導き、地上天国をつくるためです。やがて霊界へいき、天上天国をつくるのです。教会の成長が目的ではありません。天の祝福を通して、神様の求めていた真の家庭を築かせて地上天国をつくるためなのです。地上において協助圏をつくるためなのです。

ある方の姪っ子さんは、教会に来ていませんが、祈願書をすすめると、毎月書いてくれるようになりました。書いたら問題がすぐ解決する、とその姪っ子さんは信じているので、毎月書いているそうです。

また、今、教会に来れていない方たちは、恨霊が止めて妨害し、来れなくしています。祈願書を通して、絶対善霊がその恨霊の働きを弱めることができますので、知人、友人の伝道に大きな力となります。

書かれた祈願書を本人以外は見てはいけません。見た人が全部背負ってしまうからです。

祈願書で、伝道対象者の祈願を成就するようにしましょう。それには、まず伝道者自身が祈願書の恩恵を感じ、証しを持ちましょう。精誠を積み、祈願書を信じていきましょう。精誠を込めて実践できるかどうかが重要です。信徒(食口)ではない方は保護圏がなく、無防備ですので、祈願書を書くとすぐ結果がもたらされることが多いのです。私たちは日ごろから守られています。大切なのは実践し、期間をもっていくことです。そうして、私たちが祈願書の効果を感じないと薦めることは出来ません。信じて感じて証しをもって相手に薦めましょう。

4月3日『生かされて生きる人生』

(天一国四年 天暦2月26日) 礼拝説教 金 城鋒教会長

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1週間、1ヶ月、天の前に祭壇を供えていくのが、今日の4月最初の礼拝の場となります。み言、献金が祭物となって1週間の内容すべてを天の前に帰すことになるのです。週の始まる貴い最初の日(日曜日)を天に帰す、祭祀をする、神様に供えていく、天に感謝していく重要な意味を持つ日なのです。貴く準備して守っていくことが大切です。

聖書、原理を見ながら、私たちは祭物を備えていくことを学びました。
祭物は、清いもの、貴いものを備えます。一番価値があるものを備えていきます。昔、お金が無い時代は、牛などでした。自分の身(体と心)の代わりとして備えていきました。ただ備えれば良いのではなく、祭物はよく洗うなど準備し、心を準備していくのでした。それが旧約時代でした。新約時代は、み言と共に天の祭物(献金)を備え、祭祀をするようになりました。

内的には昔も今も変わりません。牛や羊を清く準備することと、お金を準備することは違うことではありません。心の中で貴い備え物の準備をして礼拝の場となるのです。

ソロモンが旧約聖書の伝道の書に、人生はむなしい「空(くう)である」と言っています。しかし彼が言いたい結論は「このむなしい人生の中で、本当に重要なことは、神様につながることである」という信仰告白なのです。イエス様が来られる前、仏教を始めたお釈迦様が人生(この世界)を見て「何故うまれたんだろう?」と思ったのでした。また、何不自由のない暮らしの王子でしたが、町に出ると、人々が病気を抱え、年老いている姿を見て、人生に疑問を持ち何人かにたずねます。「皆が年老いたり、病気になり亡くなるように、私も、年をとらないのか?病気にかからないのか?死なないのか?」答えはいずれも「あなたも年をとり、病気にかかるし、死にます」でした。そして悩み始めます。「生まれて生きる」ということは、最終的には「死」に向かっていくということではないか?と。そうだとしたら「死」に対して逃れる道がない、では何で生きるだろう?死んでしまう私に権力、財は何の意味があるんだろう?と、食べること、着ることにも気力がなくなる程、彼は悩みました。それまで何の悩みもなかった彼には外(町)で見たことは衝撃だったのです。それでこの人生においての「死」の恐怖に対して越えていける道を探したい、と修行に出て、悟っていかれます。それがお釈迦様の人生でした。

私たちにとって人生とは何でしょうか?「なぜ生きていますか?」と聞かれたら「私の人生だから(自分で全部決めていく)」と特に若い世代は答えるでしょう。では、本当にそうでしょうか?本当にあなたは自分で生きていて、自分で生活をしていて、自分が自由に自分勝手に生きれるのでしょうか?私がこの地上に生まれて「あなたの命はどこから出たの?」と聞かれたら、生物学的には、両親から生まれたのですが、魂を吹き込んで下さったのは神様です。万物(犬や猫など)とは価値が違うのです。

犬や猫を傷つけると、動物虐待と言いながら、私たちは焼き肉を食べています。豚肉も鶏肉も牛肉も食べています。人は、動物を食べているのです。牛や羊の方が人間の役に立っています。犬、猫はペットとして人間が可愛がるので殺したら罪に問われますが、牛を食べるために殺しても罪にはなりません。
では人間と動物の命は何が違うのでしょうか?同じ命ではないか、と共産主義では言っています。違うのは、人間には、神様の魂が入っているからです。肉体的なものは親から頂きます。でもそこに宿っている魂、霊人体は、神様から送られてくるものです。注いでくださるのです。いくら親が頑張っても子供の霊人体を作ることは出来ません。

それでも、肉身も自分でコントロール出来ません。心臓に少し休憩させることは出来ません。呼吸をお休みすることも出来ません。それなのに「自分のもの」でしょうか。車のように自分がコントロールしたい方へ行きません。それは、自分が思っている以外の他の力が働いているのです。背が伸びたり、髪が伸びたりするのは神様の準備された世界を通して体が自然に成長しています。この世界において、自然発生的に創造されるものは一切ありません。何かの力を与えない限りあり得ません。心臓が24時間動く為の動力はどこからくるのでしょうか?水を造った人はいますか?私たちは天が準備したものを頂くのです。お米はどうでしょうか?米を作るのに88の工程があります。そのくらい手がかかります。自分が創造したと農夫は言えますか?お米は種を植え、光を浴び水を吸い成長していき、私たちはそれを食べているのです。

私たちは、自分の体だ、といっても自分の体ではないのです。肉身は神様が創造した全ての万物を吸収して生きているのです。体の機能が低下すれば本来の神様が準備した世界へ霊人体が旅立ちます。土からきた産物を全部持っています。植物が土から栄養を吸収し大きくなり、それを草食動物が食べ、肉食動物が食べ・・・根本に戻れば、神様が創造した土の中にある栄養素が最終的に私たちの体に吸収されていくので、肉身が戻るときには「土に帰る」ことになり、魂は天に戻る、ことになります。最終的にあの世に持っていく魂を大切視していくかが大事なのです。

自分で生きてると思いながら、何も自分で生きることができない存在になっています。なぜ生きているのか、人生がむなしい、何の意味があるのか、ただ生きて食べて死んでしまう人生なのではないか、という悲しさ、むなしさを持っている人生ではないか、とソロモンは言いました。しかし、私たちには、神様が居られます。神様があなたを待っています。あなたと永遠に一緒に過ごせる世界を準備して待ってくださっています。

私たちが地上でやっていくべきことは「関係性をもつ」ことです。良い関係性です。親子関係、兄弟関係、周りの人との関係、そのコツは愛です。愛情です。親子関係も、ただ産んだ、というだけでは何の意味もありません。慕わしく持つその関係性の根本は愛です。私たちは、最終的に、人と人との関係性をどう持って生きていったのか、人生を過ごしたんだろうか、それがその人を最後に総括する内容となります。その目的をもって私たちは生きています。今、私たちがその中においての根本的なものは、あの世に霊人体で行ってからは作ることが出来ない、地上において作る「関係性」とそれを作る「愛」です。

あの世に行けば、神様との永遠なる親子の関係は変わりません。ですが、親子、夫婦での関係性を愛をもって準備をしていくのがこの地上での生活なのです。いかに、人と人との関係を愛をもって持っていくかです。神様が創造した最初の願いがそこに含まれています。

私たちは自分の力で生きているのではなく、天から生かされています。空気も水も食べ物も、そして、命さえも(肉身は親から、永世の命を神様から頂いています)です。地において一生懸命生きている、と思いながらも、実際、自分の力だけでは出来ないものが多いです。周りの方たちから助けてもらったり、愛されたりしながら生きていくのです。
人間の中で一番恐いものは、孤独感、疎外感、減少感です。それは共産主義を作ったマルクスが言っています。天使長ルーシェルの場合も、疎外感、減少感がありました。自分の寂しさ、孤独感が一番苦しいものです。皆さんから愛されてないもの、ある団体から外されてるもの、別物として考えられるもの、マルクスが言うには、豊かな生活を出来る人たちと、その豊かさから外されて本当に貧しく、苦しく、疎外感を持って生きる人たちもいます。そういう中で私たちは天の前に生きる中で、この堕落した世界では、疎外感が発生します。

万物の中で最も神様から愛された天使長ルーシェルですが、神様が愛を持って創造したアダム、エバを見て「私は愛されてない」と思いました。しかし「時」があったのです。ルーシェルにも相対が出来るまでの成長期間(責任分担)があったのです。時を待つ、ということが必要でした。越えるべきもの(疎外感)だったのです。堕落した人類の中には、この「疎外感」が根強く入っています。堕落した人類の出発なので、堕落性の根底に(疎外感、減少感、孤独感が)入っています。
ではなぜルーシェルがそれらを感じてしまったのでしょうか。
それは「神様が私を愛してくださるんだ」「今は感じないかもしれないけど神様が私をいつでもずっと愛してくださるんだ」というものを失っているのです。ただアダムとエバを見て、神様が愛するのを見て、焦点、視野が狭くなっていたのです。なので堕落した人類においても、良いときには良いですが、「神様は私が必要ないんだ。私は神様から捨てられた存在なんだ」と自分を追い込んでいくのです。自分は要らない存在になった、という疎外感です。ルーシェルから始まっていった堕落した人間の血統の中に根強く入っているものなのです。

でも、神様はルーシェルを愛しています。時を待っていて、最後にルーシェルを祝福したい、と待っている神様です。その神様の愛情を感じていないだけなのです。堕落した人類においても同様です。神様は愛しています。堕落した人類の中にあるから「お前はいらない」と言われたら神様は今までメシヤを送るまでにこんなにも苦労していません。一人息子、直系の息子である愛するイエス様を十字架に行かせながら、恩讐の息子、娘である私たちを救ってあげたい、とされたのは、愛するからです。それを、イエス様が亡くなった後の2000年間、神様は一切変わることなく、その心をずっと持ってこられたのです。なので「わたしは要らない存在だ」「人生を生きる意味は無い」と言う人も多いですが、そんな人は居ません。神様は、愛し、ずっと待ち続け、一人一人を神の元に救っていきたい、という気持ちをもっておられるのです。「要らない人」などこの人類にいないのです。神様から見れば、全員が愛する息子、娘であることに変わりがありません。

なので、人間は「神様をいかに感じるか」です。感じる方法は「神様から愛されて、今、生きている」という自覚です。親から愛される人は正しく育ちます。親の愛は強いです。道を外れても親の愛があれば戻ってきます。親の愛を求めてきます。堕落した人類が神様を求めるのは、そこに変わらない神様の愛があるからです。永遠不変であるし「絶対神様は私を愛してくださる」という確信があるから尋ねていくようになるのです。私たちはいかに神様の愛を感じていけるかどうかです。「自分の人生だ」と思いながらも、そこに準備し、見守ってくださる、導いてくださる神様です。

私たちは、寂しい時、孤独な時にこそ神様を訪ねていける時なのです。孤独な神様はそこに居るのです。人類が堕落し愛する者が全部自分を離れた一番孤独な中に居るのが神様です。愛する息子、娘が居なくなり、創造した万物も、息子娘が堕落することで全部失いました。神様の創った世界は、全部神様のものになっていません。一番孤独なその中で人類を救っていこうとして手を伸ばしてきている神様です。なので、私たちは一番孤独な時に神様に出会います。お釈迦様も修行に出て孤独な中で天を求めています。人がいっぱいの中で神様に出会うのではないのです。孤独になって本当に寂しい、悲しい、苦しい、という中でいかに私たちは神様を求めていけるかどうかです。そこに神様はおられるのです。そういう状況の中で私たちは神様をたずねていくことが重要です。

私がいくら苦しくて大変だとしても、私を絶対に変わらずに守って愛しておられる神様です。導いて見守っていこうとする方が神様です。私たちは「運が良かった」とか「導かれた」「人の出会いが良かった」と言って喜びますが、その背後の神様に私たちは感謝しているでしょうか?そのように準備した神様がおられるのです。人と人の出会いの中でも、私のために神様が準備した人と出会えるように準備した神様がおられるし、そのような道を作ってくださった神様がおられます。多くの方たちは、良い縁をもって(良い人間関係を通して)良い方向へ進んで行けます。病気を抱えていれば良い医者と出会うことは素晴らしいことです。導かれます。

私たちは「今、生きてます」「私が生きている人生です」と言う前に、神様が準備してくださった人生があります。導いてくださる人生を今、生きています。そうして今日も背後でここまで導いている神様がおられるし、私たちの先祖も必死です。なので私たちは、自分の力でいるのではなく、周りから全て支えてもらい導いてくださり神様と人々、万物がいます。それをいかに感謝して喜んで感じていけるかです。それが分かれば人生の生きる一日一日の観点が変わります。神様に感謝していけます。そのように変わっていける1週間となるよう願っています。

【み言訓読】天一国天聖経 第1篇 神様 他

第1篇 神様
天一国天聖経
第1篇 神様
第3章 創造主であられる神様
第1節 神様の創造
1 宇宙は、単純に物質に根源があるものであったり、自然発生的にできたりしたものではありません。宇宙の第一 原因者であられる創造主、神様はいらっしゃいます。そのお方は絶対者であり、永遠不変であられ、善であられます。宇宙万象は、そのお方の基本設計である創 造目的によって造られた被造物です。心情の本体であられる神様の創造目的は、喜びを享受されることです。しかし、喜びは一人では感じることができません。 ある主体が喜びを感じるためには、必ずその対象の実体が必要です。喜びの中でも最高の喜びは、主体と対象が愛を与え合うときに感じるようになります。
第2篇 真の父母
第3章 真の父母と重生
第1節 重生と復帰の道
3 生まれ変わらなければならないというのは、堕落したアダムとエバの子孫となった父母の血肉を通して生まれ変わらなければならないということではなく、堕 落と関係ない父母の血肉を通して生まれ変わらなければならないということです。そのようにしなければ、神様に戻っていくことができません。罪の根本の根は アダムとエバから始まったので、これを踏み越えて、原罪と関係がない立場で生まれたという資格を備えなければ、神様のそばに戻ることができません。

第6篇 真の万物
第3章 万物の嘆きと真の万物主管
第1節 万物と人間の関係
4 宇宙にある万物が、人間の肉体の中からそれぞれ自分たちの物をすべて探し出そうと主張すれば、人間はすべてを奪われてしまうでしょう。宇宙からすべて の元素を借りてきて形成されたからです。それは、「宇宙が私を生んでくれた。宇宙が私を造った」ということです。ですから、私の体の父母が宇宙です。私は 宇宙の元素を総合した実体だというのです。
したがって、「私は動く宇宙である」、「私は活動する宇宙である」というのです。このような観点で宇宙を愛さなければなりません。

旧約聖書 伝道の書
第1章
1:1ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。
1:2伝道者は言う、
空の空、空の空、いっさいは空である。
1:3日の下で人が労するすべての労苦は、
その身になんの益があるか。
1:4世は去り、世はきたる。
しかし地は永遠に変らない。
1:5日はいで、日は没し、
その出た所に急ぎ行く。
1:6風は南に吹き、また転じて、北に向かい、
めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
1:7川はみな、海に流れ入る、
しかし海は満ちることがない。
川はその出てきた所にまた帰って行く。
1:8すべての事は人をうみ疲れさせる、
人はこれを言いつくすことができない。
目は見ることに飽きることがなく、
耳は聞くことに満足することがない。
1:9先にあったことは、また後にもある、
先になされた事は、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。
1:10「見よ、これは新しいものだ」と
言われるものがあるか、
それはわれわれの前にあった世々に、
すでにあったものである。
1:11前の者のことは覚えられることがない、
また、きたるべき後の者のことも、
後に起る者はこれを覚えることがない。

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