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説教 2017年11月

11月26日『犠牲と主人』

(天一国五年 天暦10月8日) 礼拝説教 金 城鋒教会長

【み言訓読】

天聖経
第一篇 神様
第一章 神様の存在と属性
第一節 神様の実存
22. 神様は、愛の根、生命の根、血 統の根、良心の根です。これは聞違いないことです。そのような神様がいるとすれば、なぜ感じられないのでしょうか。「私」と一つになっているからです。愛 と共に、生命と共に、血統と共に、良心と共に一つになっています。神様は根です。神様を現そうとすれば、四方に愛をまきなさいというのです。投入しなさい というのです。それは、自分の生命と愛と、このすべてのものを犠牲にして完全にゼロの位置に戻れば、神様が主人として現れるということです。ですから、ゼロになったその位置で、神様を中心として横的に連結するのです。堕落したために、これが縦的に押さえつけられています。これを横的に連結できるようにすれ ば、神様が、自分の良心の中で主人になるのです。

第四節 神の属性
11. 善の神様は、犠牲と愛の神様です。愛は、犠牲の本質を離れてはあり得ません。愛する人のために犠牲になったとしても、その犠牲を犠姓とは考えません。 犠牲になれば犠牲になるほど恵みを感じるのです。愛とは、そのような異なる性質をもっています。愛がどれほど大きいかを考えるとき、それを表すのは、必ず 犠牲になるその量がどれほど大きいかによって、愛の大小、高低が決定されます。犠牲が大きければ大きいほど、大きな愛を表すのであり、犠牲が小さければ小 さいほど、そこでは小さな愛を表すのです。

第2篇 真の父母
第五章 天地人真の父母と勝利圏相続
第四節 真の父母の伝統相続
よりみ旨のために苦労しなければなりません。そのようにすれば、すべての人々が、そのあとに従っていきます。誰が教会のために犠牲になり、誰が教会の ために自分の一家を犠牲にし、誰がより苦労し、より心情的伝統に近いかが大切なことです。末端にいる人が、み旨のために、夜も昼も祈って、血と汗を流しな がら愛の精神を具現しようとすれば、その人が女性であろうと男性であろうと、天は、その人を通して新しい歴史を連結していくのです。統一教会は、既にその ような伝統が立っています。先生の息子、娘の中で、誰が先生の後継者になるのかという問題も、誰がみ旨に対してより多く犠牲になり、誰が孝行の道理を尽く すかにかかっています。すべて同じです。家庭でもそうであり、教会でもそうであり、すべてそのような伝統に従っていかなければなりません。


11月19日 野外礼拝

(天一国五年 天暦10月1日) 礼拝説教 金 城鋒教会長


11月12日『責任分担と復帰』

(天一国五年 天暦9月24日) 礼拝説教 金 城鋒教会長

【み言訓読】

原理講論
第一章 創造原理
第五節 被造世界の創造過程とその成長期間
(二) 被造物の成長期間
(2) 間接主管圏
万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成するように創造された。すなわち、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創二・17)と言われた神のみ言を見れば、人間始祖が神のこのみ言を信じて、取って食べずに完成するか、あるいはそのみ言を信ぜずに、取って食べて堕落するかは、神の側に責任があるのではなく、人間自身の責任にかかっていたのである。
したがって、人間が完成するか否かは、神の創造の能力にだけかかっていたのではなく、人間自身の責任遂行いかんによっても決定されるようになっていたのである。
人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった(創一・28)。
このような主管性をもつことができなくなった人間たちにおいても、復帰原理によって、人間の責任分担を完遂して、サタンをはじめ、万物に対する主管性を復帰するための、間接主管圏をすべて通過しなくては、創造目的を完成することができないのである。
イエスの十字架による復活の恵沢を与えてくださったのは、神の責任分担であって、それを信じるか、それとも信じないかは、あくまでも、人間自身の責任分担なのである(ヨハネ三・16、エペソ二・8、ロマ五・1)

天聖経
第四篇 真の人間
第二章 人間の責任分担と堕落
第一節 人間の成長と責任分担
9 神様は、どうして人生の中に責任分担を立てたのでしょうか。全知全能の方なので、その全知全能の創造性までも賦与し、また永遠不変の愛の主体であられる ので、その愛の主体を身代わりできる位置に立てるために、責任分担を与えざるを得なかったのです。これは福の条件となり、全体を占領できる一つの鍵のようなものなので、これを与えざるを得なかったのです。しかし、この責任分担が問題となり、堕落したのです。

12 天の国に入る人は、責任分担を完成して真の父母の血肉をもった子女になり、神様の直接的愛を受けられる位置に行かなければなりません。そのような場で、主管を受けながら暮らした人々が行く所が天国です。そのため、これを知らなければ、天国に入って入籍することができません。
むやみにやってもできない のです。ですから、責任分担について知らなければなりません。 なぜ責任分担を与えたのでしょうか。それは、人間に無限で高貴な価値を賦与するためであり、神様の創造の偉業に加担させるためです。もし人間に責任分担を 賦与していなければ、人間は神様の愛に相対できる対象の位置に立てません。

17 原理には許しがありません。いずれにせよ行かなければならないのです。死んでも行かなければなりません。永遠に行かなければなりません。神様御自身が これを思いどおりにできるなら、神様が今まで復帰摂理路程において受難の道を行く必要もないのです。しかし、責任分担的限界線があるために、神様がその網 目にかかり、今まで人間を復帰するために数多くの受難の道を歩んできたのです。その責任は神様にだけあるのではありません。人間と共同で責任を負っている のです。堕落しなかったとしてもそうなのです。
  

11月5日『絶対と相対』

(天一国五年 天暦9月17日) 礼拝説教 金 城鋒教会長

【み言訓読】

天聖経
第一章 神様の存在と属性
第一節 神様の実存
第二節 根源であり本体であられる神様
1 人間が絶対者によって創造され、絶対者の愛を実践するように造られたとすれば、人間の創造に動機と目的があったことは明白です。その動機と目的を明らか にしようとすれば、絶対者がどのようなお方かという問題、すなわち正しい神観がまず立てられなければなりません。正しい神観が立てられることによって、そ のお方の創造の動機と目的が明らかにされるのであり、したがって、平和のために絶対愛を実践しなければならない理由も明白になるのです。

9 神様は、愛のために人間を創造されました。愛は独りで成立するものではありません。したがって、神様が絶対に必要とされるただ一つのものは、その愛を施 すことのできる対象、すなわち神様が愛することのできる対象です。必ず相対がいてこそ愛することができます。愛と心情の本体であられる神様は、その愛が動 機となって宇宙を創造されたのであり、特にこの期間に、創世記第一章二十七節のみ言どおり、神様に似た実体対象として人間を創造されたのです。

第四節 神の属性
5 愛は相対的関係から生じます。ですから、絶対的な神様であっても、愛の前には絶対服従しなければなりません。そうでなければ、人間の道理についての教育 ができません。神様は、アダムとエバに対して、「お前たち夫婦の愛は絶対的である。永遠に変わらない」とおっしゃるのです。なぜ絶対的かといえば、アダム とエバは神様の属性が顕現した実体だからです。神様は唯一、絶対、無二のお方です。ですから、アダムも、その属性が顕現したがゆえに絶対的な存在です。ア ダムは神様の男性的な属性が顕現した存在であり、エバは神様の女性的な属性が顕現した存在なのですが、その属性自体が絶対的です。その内的な属性と外的な 属性を備えたものを一つに束ねるものが愛です。その愛は、神様までも絶対服従する絶対的な愛です。ですから、その絶対的な愛を中心とする夫婦は、唯一無二 なのです。絶対的であると同時に永遠不変です。

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